A HINT OF YOU / ケイ赤城トリオ
… by Ayumi Taguchi
まるでシュール・レアリスムの絵のように
――波静かな海原の上、中空に白く光る球体が浮かんでいる。球体は徐々に輝きを増し、まばゆい光がついには世界のすべてを圧し呑み込んでしまう――
シュールで神秘的なこのイメージの既視感はどこから来るのだろう。ああ思い出した、昔読んだレイ・ブラッドベリの作品だ。未来、肉体を備えず球形のエネルギー体として存在する生命体の棲む星で、伝道に訪れた牧師が黒板に円を描いて言うのだ。「みなさん、これが神の子イエスです」
光に占められていた心の視界が戻ったことに気付いた時――その間が一瞬だったか数時間なのか記憶にない――曲想はガラリと変わっていた。先ほどの球体は銀灰色に光り、世界を冷たく照らしている。時おり何かが視界の端を掠めるが、そちらを見るともう消えている。意識の一部が眠ったままのような浮遊感…それが突然断ち切られ、短いモチーフが鮮烈に提示されたのに続いてベースとドラムによる過激なインプロヴィゼーション。ピアノにもたれて楽しそうに2人を見やるケイ赤城。やがて少しずつピアノがテーマを投げかけ、それに向かって演奏が収束を始める。音のかけらが寄り集まり音楽になっていく、あるいは音が音楽から剥落していく。創造と破壊、この一見相反する二つの事象は彼らの音楽においては同一のものかも知れない。そういえばインド神話のシヴァ神は破壊と創造そしてすべての芸術を司る神だ。そんなことが思い浮かぶうちにも音楽の姿が顕わになっていき、やがてピタリと定まった。そこが曲の終着点。
以上、約25分。ケイ赤城トリオ2003年のライブはこうして始まった。
『PALETTE』で書いた通り私は本作を聴かずにライブに出かけた。そう決めてからは収録曲名も見ず、紹介記事などを読むのも避けていた。だから以下のことを知ったのは演奏に続くMCでだ。
あたかも3つの楽章を持つ1曲のように思えたのが本作の1〜3曲目を立て続けに演奏したものであること。
それぞれの曲名が「Evening Hymn」(夕べの賛美歌)「A Hint Of You」(あなたの手がかり)「Vertical
Fragments」(垂直的断片)であること。
自分の感受性のまんざらでもない出来に感謝。
ライブ主義の理由
ところで。ライブの愉しみとは何か、このトリオを聴けばその答えが良くわかる。
すでに造り上げられていたはずの曲が分子レベルにまでバラバラになり、音同士引き合うままに寄り集まり結合して新たに音楽が構築されていく。そしてわずかな遺伝子配列の違いが生き物の種類を分けるように、音の出会いのわずかな差が昨日と今日を大きく変えていく。フレーズや展開がどう違うというレベルではない。それは音楽が、このトリオにあっては世界が産み直されること。その過程を目の当たりにするのはこの上なくエキサイティングな体験であり、これこそがライブの、そしてジャズの醍醐味なのだ。
私はこの年、博多NewCombo〜別府Base-1と2度聴いたのでそれがよりはっきり感じられたが、そうでなくても充分わかったはず。実際、Base-1では冒頭の3曲が果てた瞬間、その日のすべての演奏が終わったかのような万雷の拍手が沸き起こり、MCを始めようとしたケイ赤城は口を開きかけては閉じるを2度繰り返した後、ようやく話し始めることができたのだった。
もしライブに接しなくてもCDやレコードから上述のことは充分わかると思っているなら。断言する。それは不充分な想像に過ぎない。いかに優れた録音を優れたオーディオシステムで聴こうとライブの情報量とは桁が違う。一流の演奏者がどんなに互いの音を聴きあい呼吸を読みあっているか、その気配はマイクでは拾いきれない。ライブを知ればこそ、CDを縁(よすが)として醍醐味を思い出す、あるいは想像することも叶うのだ。
他の収録曲・演奏曲について説明するのはやめておこう。ただ、良く知られたスタンダード曲も、曲に寄りかかることなく、ひたすらその瞬間に生み出された音の積み上げで成り立っていることを、このトリオのライブを何度も聴いた人間として証言したい。
だからこそジャズというより現代音楽の範疇に入りそうな前衛的な演奏の次に、いうなれば“普通”の演奏が続いても、そこには何の違和感もない。
最後にもう一つだけ、ライブを聴きながらふと思ったことを。
ケイ赤城は第一級のピアニストの顔と共に、UCLAアーバイン校の芸術学部教授という顔を持っている。そのため演奏活動に専念できるのは大学が長期休暇の間に限られ、それは彼自身の悩みでもあるのだけれど。
もしも休みなしにこんな演奏をし、こんな勢いで変化し続けたら、生身の人間は早くに燃え尽きてしまうのではないだろうか――。 (了)